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ドイツ発 雨宮の迷走ニュース

ちょっと尖ってるらしいオピニオン系ブログ。海外生活やライフハック、その他ニュースなど。

「多様性を認める」を都合よく解釈してない?なんでもアリじゃないぞ

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「多様性を認める」って便利な言葉ですねぇー。わたしは色んな生き方、考え方を認めてるつもりです。

でも、なにかを批判すると、「多様性を認めてない」って言われることがあります。

 

「多様性を認める」って、いつから「だれのことも批判しちゃいけないよ! みんなで仲良しこよし!」になったんでしょうねぇ。

 

「多様性を認める」の都合のいい解釈

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なんかさー「多様性を認める」を都合のいいように解釈してる人が多くないですか?

 

多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。 性質に類似のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。

多様性 - Wikipedia

 

ただ「みんないろいろだね!」じゃなくて、共通点のある人たちが集まって群れを成して、その群れがたくさんある感じのことを言うようです。へぇー。

 

多様性を「認める」意味

多様性を「受け入れる」じゃなくて、なんで「認める」と言うのか。それは単純で、認めるのと受け入れるのでは、まったく意味がちがうからです。

 

内戦が起きた。教育が受けられない。だから難民として避難する必要がある。その必要性は、多くの人が「認めている」でしょう。だからといって、「うちの国に住んでいいよ」って受け入れるかどうかはまた別。

 

それなのに「認める」=「受け入れる」ってごっちゃにしてる人多くない?

 

わたしは、見ず知らずの人に対して人格攻撃をする人は大嫌いです。でも、そういう人がいるのは認めてる。とはいっても、嫌いだから受け入れる気はない。関わりたくないし、ヨソでやってほしい。

 

わたしはナスが嫌い。でも、「ナスが好き」「ナスが大好き」「ナスアレルギー」みたいに、いろんなグループがある。

 

多様性を認めるっていうのは、「自分が所属するグループ以外のグループもある」って理解することであって、ナスが嫌いなのにナス好きの人を受け入れて、自分もナスを食べる必要はないんです。

 

多様性を認める⇔排他的

多様性を認める→「自分とちがう人もいる」と理解すること。反対にあるのは、「自分とちがう人は排除する」という排他的な考えです。

 

『多様性を認めない』という多様性を認めよ!」ということば遊びを弄してくる人がたまにいます。今日はこれについて考えましょう。

 

「多様性を認めよ!」というぼくの要求は、「排他的になるな!」という要求の裏返しです。人々が排他的になればばるほど、社会の多様性は減じていきます。排他的であることをやめれば、自然と社会は多様になっていきます。

 

ゆえに、「多様性を認めよ!」と語る人は、「『多様性を認めない』という多様性を認めよ!(排他的であることを認めよ)」と語る人を認めることはできません。排他性は多様性を阻害する、根源的な要素だからです。

「多様性を認めよ!」vs 「『多様性を認めない』という多様性を認めよ!」 : まだ東京で消耗してるの?

 

さすがイケハヤさんは検索に強いな……。

これは「なるほどねー」って思いました。「多様性を認める」って言っても、なにしてもいいわけじゃないです。

排他的であるという多様性を認めてしまえば、多様性は損なわれます。だから認められないんですね。納得。

 

多様性を認めても批判はするよ?

「多様性を認めると言っておいて、相手の生き方や考え方を否定してるじゃん!(排他的じゃん)」みたいなことを言われました。でもそれはちょっとちがいます。

 

わたしは、自分とはちがう考えの人がいることを理解して、認めてます。でも嫌いだから否定したんです。

「多様性を認める」という言葉を意識しすぎて、逆に「だれもなにも否定しちゃいけない」って思っていませんか?

 

たとえば、金目当てに結婚する女がいるとしましょう。別にその人の勝手だから、好きにすればいい。「多用な考え方・生き方」があるんだから、そういう人だっているでしょう。

 

そこでわたしが、「そういう人は嫌い」と言ったら、それは「多様性の否定」なんですか?

 

多様性って別にみんな仲良しこよしするわけじゃないぞ? 相手の自由だと認めた上での批判は成り立ちますよ。そうじゃなきゃ、「多様性」って言葉に惑わされて「反論や問題提起」が許されない風潮になって、逆に多様性が失われるとかって状況になります。

 

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みんな堂々してればいいんじゃない?

いろんな人がいるのは当然。だから、自分とちがう人間を排除するのは無意味です。そう考えてるから、「みんな好きにやればいーじゃん」っていつも書いてます。

 

でもそれは、「批判も否定もしないよ! ぜーんぶ受け入れます★」ってことじゃない。そんなことだれも言ってません。認めるのと受け入れるのはちがいます。

 

「多様性を認める」っていうと、耳障りが良くて社会的で道徳的に聞こえますね~。ええ、素晴らしいです。

 

でもそれって、ざっくり言えば「みんな堂々してれば?」ってだけじゃないですか?

 

法律違反や明らかな社会倫理の逸脱は別として、「俺はこうだ!」「わたしはこうだ!」って堂々してればいいじゃんってだけ。

それを否定する人もいるだろうけど、それが自分なんだからしょうがない。少数でも同意して、同じ群れを形成する人も現れるかもしれません。それが多様性ですよ。

 

多様性を盾にゴチャゴチャ言うよりも、「みんなこうかもしれないけど、わたしはこう!」って堂々してた方が、多様性として健全だと思うし、しっくりくる。

 

だからわたしは、「他人は知らんが自分はこうだ!」ってのを発信してるし、納得いかないことがあったら批判してます。

「多様性」を他人を惑わす言葉として使っている人は、「多様性を認める」ことを都合よく解釈しているだけですね。

 

んーーまとまってないな……。

 

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