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ドイツ発 雨宮の迷走ニュース

ちょっと尖ってるらしいオピニオン系ブログ。海外生活やライフハック、その他ニュースなど。

停滞と孤独は、人間である限り感じ続ける焦りと不安だ

エッセイっぽいもの
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今日は、いまわたしがどんなことを考えてるのか、いつもとガラッと雰囲気を変えて書いてみる。はじめての試みだから、ちょっとドキドキしながら公開する。

 

気恥ずかしいけど、自分の心のモヤモヤを、文章にしてみた。

 

停滞する自分に対しても、時間は待ってくれない

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窓の外は、雪と霧。なんだかおどろおどろしい空気が漂っていて、意味もなく胸騒ぎがする。

 

昔は雪を見ると無条件にはしゃいで、いの一番に自分の足跡をつけて、雪球を投げて遊んでいた。でもいまは、そんな気分にはなれない。雪を見ると、「また季節がめぐってしまった」と怖くなる。

 

去年も、同じ部屋から雪を見ていた。もう1年経ってしまったのだ。最近、自分が立ち止まっても、時間は一方的に流れていくのが、怖いと思うようになった。流れていく時間に合わせた速度で進まないと、取り残されてしまう気がする。自分が停滞していると考えている人は、たぶんこういう感情を知ってると思う。

 

たとえばこの停滞状態が1年続いたとして、1年後、また雪を見る。そのとき、「ああ、また1年経ってしまった」と怖くなるだろう。人生は有限なんだから、毎日刺激的で、革新的な時間を過ごすのが理想だ。でも実際、そんなにめくるめく冒険の日々が待っているわけじゃない。

 

ちょっと立ち止まって、自分の歩いてきた道は正しかったのかと考えたいけど、そうしてるうちに、また時間は進んでいってしまう。停滞というのは、時間に置き去りにされるようで、やっぱり怖い。

 

人間は、一番疲れる動物

人間は自分たちを、万物の霊長だと思っている。たしかに、イルカやサルは因数分解なんかできないし、電気やガスを使って生活をしない。思考力(あるいは好奇心)と、その思考を実現できる肉体があったから、人間は万物の霊長になったんだろう。

 

でもその思考力は、常に人間にポジティブな影響を与えるとは限らない。人は考える。考えるべきことも、考えなくてもいいことも、考えるべきじゃないことも、考えてしまう。わたしは、他人の様子をうかがう癖がある。どれだけ楽しそうにしているかがすごく気になってしまう。だからといって他人に合わせるという素直さも持っていないから、いつも自己嫌悪に陥る。

 

先日『アメトーーク』で紹介された、『マチネの終わりに』という小説を読んでいる。「中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出る」男女2人の恋愛物語だ。アマゾンでは、75件のカスタマーレビューを平均して★4.3という傑作だ。

 

人類は今後、未来永劫、疲れた存在であり続ける。疲労が、人間を他の動物から区別する特徴になる? 誰もが、機械だの、コンピューターだののテンポに巻き込まれて、五感を喧騒に直接揉みしだかれながら、毎日をフーフー言って生きている。痛ましいほど必至に。

マチネの終わりに

 

多くの人が、「痛ましいほど必至に」生きていると思う。本来、命を享受できるだけで最高に贅沢なはずなのに、まわりのモノに振り回されて疲弊する。なまじ思考力があるものだから、「これでいいのか」「こうするべきなんじゃないか」という迷路に迷い込む。だから人間は、疲れるのだ。

 

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20代半ばになって考える「人生の終わり」

まだ気が早いかもしれないが、結構前から、「自分の人生はどんな終わりを迎えるんだろう」と思うようになってきた。悲観してるだとか、自殺願望があるわけじゃない。ただ、いま生きてるから、生きてない状態になるとき、自分はなにを思うんだろうと考える。停滞しているからこそ、このまま老いていくのが怖くて、そんな想像をしているだけかもしれない。

 

「楽しい人生だった!」って笑って、痛みもなく、眠るように息を引き取るのが一番いい。でも、このままあと60年も生きるとして、果たして「楽しい人生」と言えるんだろうか。このままズルズルと生きて、気づいたら「高齢者」になって、なんとなく消えていってしまうんじゃないか。そんな焦燥感がある。

 

たぶんこれは、流れる時間に置いていかれるという不安感や、ムダに発達した思考力による疲労とかが合わさった、将来への漠然とした焦りなんだと思う。もしかしたら、同じように、「このまま気づいたら人生が終わってしまうんじゃないか」と怯えている人もいるかもしれない。

 

順風満帆の人生を送っていない限り、常にこういったモヤモヤとした気持ちを抱えていかなくてはいけないのだろうか。そう考えると、人生は、人間は、とても疲れる。

 

繰り返しておくが、特に病んでいるわけでも、破滅願望があるわけでもないから心配はしなくていい。ただ、「これでいいのか」と考えていくと、人生の終わりについてまで想像が膨らむという話だ。

 

孤独とは影響力の欠如

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ここまで書いて一時保存して、以下は7日の朝に書いている。昨日は、『マチネの終わりに』があまりにおもしろくて、読み終わるまで夜更かししてしまった。今日も相変わらず、景色は霧で閉ざされている。

 

なんだかムダにいろいろと考えて疲れているわたしは、結局のところ孤独を感じていた。フリーランスだからかもしれないが、「なににも所属していない」というのは、自由であってとても不安定だ。自分がどこに立っているかわからなくなる。「自分がいなくても、だれも困らないんじゃないか」といった不安がついて回っていた。

 

そんなわたしにとって、この文章は印象的だった。

 

孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他者に対して、まったく影響を持ち得ないということ。持ち得なかったと知ること。

マチネの終わりに

 

わたしが「孤独だ」と感じるのは、生活が安定していなくて、自分の影響力があまりに小さくて、「どうでもいい存在なんじゃないか」といった不安感からくるんだろう。でも、じゃあ影響力をつければ、孤独じゃなくなるんだろうか。

 

でもその理論でいけば、ブログを立ち上げたばかりでなんの影響力もなかった1年前に比べたら、わたしの孤独感が少なくないと説明がつかない。それなのに、1年前のまったくの手探り状態よりも、中途半端に階段を登ってしまったいまの方が、孤独感が強い。なんでだろう。ふしぎだ。

 

 停滞と孤独もまた人間の疲労感

こういう記事を書くのははじめてだけど、まとめ方がわからんね。とりあえず最近考えてることを書いただけだから。

 

あえてまとめるとすれば、停滞する焦りや、孤独による不安っていうのは、生きている限り付き合っていかなきゃいけない感情なんだと思う。停滞のない人生っていうのは考えづらいし、人はみんな、心の隅で「他人から理解してもらえない。ひとりぼっちだ」って孤独感を持ってると思う。

 

マチネの終わりに』の一文、「人類は今後、未来永劫、疲れた存在であり続ける」っていうのは、そういった意味で真理かもしれない。

 

……ってネガティブなまとめになっちゃった。とりあえずこういった文章を書いてみようっていう試みでした。うーん、気恥ずかしいし、感性や印象、心象を文章にするってむずかしいね! 病んでるわけじゃないから心配しないで!

 

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