東野圭吾『人魚の眠る家』あらすじと感想!

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一時帰国したので、新刊チェックして、東野圭吾さんの「人魚の眠る家」を読みました。

脳死、そして臓器提供についてのストーリーです。「わたしを離さないで」も臓器提供の話ですし、タイムリーですね。

 

『人魚の眠る家』あらすじ

薫子の夫は社長。家庭は裕福で、ふたりの子どもにも恵まれた。でも夫婦仲は破綻していて、娘の瑞穂の小学校受験が終わったら離婚しようとしていました。

 

そんなある日、瑞穂がプールで溺れたとの知らせが入ります。「瑞穂が脳死状態になった」

 

二人はそれを受け入れられず、父親の和昌は巨額を投じ、母親の薫子は自分のすべてを投げ捨てて介護にあたります。たとえば、人工呼吸器。娘の瑞穂は寝たきりの状態で自発呼吸ができません。なので気管切開をして人工呼吸器をつけることが一般的です。

 

ですが二人は、保険がきかない手術を受けさせ、横隔膜ペースメーカーを付けさせました。理由は「娘に呼吸をさせてやりたい」から。

 

実際のところ、手術を受けさせても、自発呼吸をするわけではありません。イメージでいうと、人工呼吸器を体の中に埋め込んでいるようなものです。完全なエゴです。

 

2人は最新技術を使い続け、瑞穂を「ただ眠っているだけの少女」に近づけていきます。ですがそこで、運命の選択を迫られます。

 

『人魚の眠る家』のテーマ

瑞穂は脳死状態ではありますが、脳死してはいません。それは、とあるルールに基づくものです。42ページからの部分をまとめます。(太字は雨宮による)

多くの国では、脳死=人の死として認められている。だから脳死と判断されたら、心臓が動いていてもすべての治療が打ち切られる。延命処置をされるのは、臓器提供をする場合のみ。

それに対し日本は特殊な法律があって、臓器提供に承諾しなければ、心臓死=死となる。つまり、脳死状態であっても「生きている」ということだ。脳死=死となるのは、本人が臓器提供をしたい場合のみだった。(その場合、心臓が動いていても延命治療をやめ、移植の準備を進める)

だが法改正によって、家族が移植に同意した場合も脳死=死となった。つまり、家族が判断しなくてはいけないのだ。

移植に同意しなければ、心臓が止まるまで患者は生きていることになる。だが回復はまず不可能。だが移植に同意すれば、まだ動いている心臓を止めなくてはいけない。


大切な家族を「生かす」か「殺す」かを自分で選ばないといけない。生かすとしても、それはただ死を待つのみ。

 

臓器提供に承諾すれば誰かを助けられるかもしれないけど、まだ心臓が動いている家族の命を終わらせることになる。 考えるだけで悲しくなる選択です。

 

「今、私がこの子の胸に包丁を突き刺したなら、私は罪に問われるでしょうか」
「そりゃあ当たり前です」
「どういう罪ですか」
「殺人罪に決まっています」
「医師からは、娘はおそらく脳死しているだろうといわれています。すでに死んでいる人間の胸に包丁を刺す――それでもやはり殺人罪なのでしょうか」

 

あなたはこの質問に、答えられますか?

 

迫られる脳死と臓器提供の決断

この「おそらく脳死している」というのは、両親が臓器提供に同意しなかったので、脳死判定も行われなかったから「おそらく」なんです。脳死判定されるのは、臓器提供をする場合のみということですから。

 

生きている人から心臓などは取り出せませんから、死んでいる、という証明が必要なんですね。そのための「脳死判定」なわけです。 臓器提供しないのであれば、ただ心臓が止まるのを待つだけ。

 

だから脳死状態ではあっても、それは正式な「脳死」ではなく、かたちとしてはまだ生きている、ということになります。ややこしい……。

 

臓器提供に同意→脳死判定→脳死と判断される→死亡
同意しない→脳死判定はされない→心臓が止まるまで待つ→死亡

 

という究極の2択を、家族が迫られるわけです。
心臓が動いていれば、意識が完全にない状態でも生きている、といえるのでしょうか。

 

臓器提供、そして脳死。ふだん考えたことなかったけど、自分や自分の家族がこうなったら……と思うと胸が締め付けられます。

 

 

『人魚の眠る家』感想

母親の中では、物言わぬ少女となった瑞穂は、生きていました。ただ眠っているだけ、いつか目を覚ます、と。

 

ですが医学的に、それはまずあり得ません。臓器移植に同意すれば、彼女の一部がほかの命を救うことができます。頭では、だれでもわかります。ですが、そのために家族の心臓を、止めることができますか。

 

ここで問題となるのが、どこからが生でどこからが死か、ということです。


欧米では臓器提供の理解が進んでいるようで、脳死=人の死、それならばほかの誰かのために、と切り替えることができる人が多いようです。

 

ですが日本は、臓器提供を望まなければその人は脳死と判断されず、「生きて」いることになります。そこで「いや、脳死は人の死だ」と割り切れる人がどれだけいるんでしょうか。まだ心臓は動いているのに。

 

わたしは本人の意思が確認できないのであれば、「家族の心臓を止めてだれかを救ってください」とは言えないと思います。だって、どんなかたちでも「生きて」いてほしいから。でもそれはワガママなのかな。そんなことを延々と考えてしまいます。

 

臓器提供って学校でちらっと勉強したけど、真剣に考えたことはありませんでした。自分になにかあったとき、家族の負担を減らすためにも、意思表示をしておいたほうがいいですね。

 

あなたは、どういう答えを出しますか

あなたの家族が脳死であろう状態に陥ったとき、あなたはどうしますか?

自分が脳死状態になったのであれば、多くの人は「誰かのために」と思うでしょう。ですが、あなたが握っているのは、家族の命であり、人生です。そしてその家族は、もう2度と意思表示をしません。

そんなとき、あなたは「生」を認めますか。それとも「死」を認めますか。

このテーマについて深く考えさせてくれる本は、なかなかありません。この本の中でも、何が正しくて間違えているのか、という答えは完全には出ていません。自分で答えを見つけないといけないんです。

重たいテーマではありますが、一度考えてみるのはいかがでしょうか。あなたはいったい、どんな答えにたどり着きますか?

 

人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)』、おススメです!

 

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