最近「コンテンツ作り」「コンテンツ勝負」といった言葉を目にしますが、その日本語って正しいんでしょうか。
なんだか英語でも日本語でもない中途半端なカタカナ語が多いように思えます。「コンピューター」みたいに世界共通の言葉ならともかく、英語でも日本語でも違和感があるカタカナ語ばかり。
カタカナ語として使うなら、英語、もしくは日本語としてちゃんと機能するものだけにしませんか?
英語でも日本語でもないカタカナ語「コンテンツ」
カタカナ語ってなんかイラっとするんですよ。日本語でも英語でもない、すごく中途半端な言葉だと思います。
というわけで、最近よく見かける「コンテンツ」について調べてみました。
英語「content」の意味
まずはコンテンツの英語の意味を調べてみました。
content
1.〔容器などの〕内容物、中身◆通例、contents
2.〔容器の〕容量、収容力
3.〔ある物に含まれる〕含有量
4.〔本や雑誌などの〕内容、項目◆通例、contents
5.〔重要で興味深い〕意味、意義
6.〔芸術作品の〕中身、内容
7.《コ》コンテンツ、内容◆電子的に利用可能な情報。◆【用法】通例、単数形のみ。
出典:アルク
おい! 7! 英語の意味をカタカナで説明するのやめーや!
contentは基本的に、「内容・中身」という意味です。だからわたしはずっと、「コンテンツ作り」という言葉に違和感を感じていました。中身を作るってどういうこと?
カタカナ語「コンテンツ」の意味
「じゃあコンテンツってどういう意味なのよ」といえば、こんな感じだそうです。
現在の私たちが使っている「コンテンツ」という言葉は、「メディアを介して流通するものの内容」を意味する「Media Content」を略したものであり、英単語「Content」が持つ元来の意味である「(容れ物の)内容」といったものからはかなり拡張された概念です。 (略)
「コンテンツ」とは、映画、音楽、演劇、文芸、写真、漫画、アニメーション、コンピュータゲーム、その他の文字、図形、色彩、音声、動作若しくは映像、若しくはこれらを組み合わせたものであって、人間の創造的活動により生み出されるもののうち、教養又は娯楽の範囲に属するものをいう。
出典:SEO検索エンジン最適化
拡張しすぎだろーが! 元の単語の意味ぜんぜん残ってねーじゃねぇか! なんなんだよ、どう拡大化したらこんな派生語になるんだよ!と疑問でいっぱいです。
カタカナ語は外来語を日本語表記したものであって、勝手に意味を付け足したり変えたりするのはどうなんでしょう。
だから日本人は英語ができない
こういうのを見ると、「だから日本人は英語ができないんだなぁ」と思います。
contentを「創作的活動で生み出された、教養または娯楽に属する作品」って意味だと思っていたら、英語は一生できるようにならないでしょう。
はい、ここで「カタカナ語は英語じゃないから」と言う人。
じゃーなによ。日本語? 日本人にもよく意味がつかめない、そして英語の単語としても機能しないカタカナ語ってどこに需要があるの?
この単語を見たらそっと記事を閉じる言葉リスト:エビデンス、ロジカルシンキング、センシティブ、ポピュリズム、オルタナティブ、コンテクスト、コミットメント、コンセンサス
— 雨宮@迷走ニュース (@amamiya9901) 2016年10月24日
カステラとかはわかりますよ、日本語に訳す必要もないもん。都市名とか。
でも↑みたいな単語って、明らかに日本語の方がわかりやすいよね。なぜ英語の意味を曲げてまで日本語として使うのか、不思議でなりません。
英語の単語を使うなら、せめてもとの発音通りに発音しません? ドイツ語はそうですよ。ツイッターやらアプリやら、ドイツでは英語の単語をそのままの発音で使います。そっちの方が自然だし、合理的だし、納得できます。
機能しないカタカナ語に意味はない
日本語ってすごく自由な言葉ですよね。外来語も使えるし、オノマトペを使って「雨ザーザー降り」「ぱらぱらと降ってる」のように、雨の強さを表せます。。「コストパフォーマンス」をコスパなんて略せるし。
でも柔軟だからこそ、本来外国語だった言葉をカタカナ語にして、意味が肥大化していって、しまいには日本語化してしまう。ほかの言語じゃなかなか起こらない現象ではないでしょうか。
カタカナ語自体は便利だとは思うんですが、それを英語として使うなら英語で、日本語として使うのであれば、日本語として機能しなきゃいけないんじゃないでしょうか。
コンテンツって例をまた使いますが、コンテンツ、と聞いてcontents=中身・内容という英単語として理解する。もしくはコンテンツ=創作物という日本語として理解する、のどちらかが機能しなきゃ、意思疎通ツールである言葉として意味がありません。
問題は、「英語として機能するには発音が日本語化されているし、日本語として使うには意味がよくわからない」ということ。
コンテンツって聞いてcontentsが浮かぶ人は、「中身・内容」と理解します。で、その英単語を知らない人は、日本語の「コンテンツ」を思い浮かべます。こういうあいまいさが便利ではあるけど、なんだか意味がぼんやりしていて、「結局なんなの?」とイラっとしてしまいます。
カタカナ語を使うとぼんやりする
日本は今まで、大陸から漢字を拝借したり、西洋の医学を取り入れたり、よそからいいものを取り入れてきました。
島国として閉鎖的な空間・文化だったことを考えると、よそから入れたものを日本化して使ってきたって感じですね。で、外来語を日本語化してカタカナ語にしました。
おかげさまでカタカナ語は、日本語でも外国語でもない、どっちつかずの言葉になりました。で、ただわかりづらくなってしまった。
何となく語感が似ているカタストロフィ(catastrophe)という言葉は、「自然界の大変動」「社会の大変革」「破局」を意味します。「ドラマや小説などの悲劇的結末」を呼ぶことも多いので、混同されやすいのかもしれません。
出典:三省堂
あほすぎぃ! catastropheって中学で習うんとちがうんか!?
日本語として機能しているカタカナ語はすでに意思疎通が可能ですから、使ってもいいとは思います。代替えの単語が思い浮かばないものもありますから。コンピューターとかキーボードとか。
プライバシーなんてのは、西洋から入った概念(たぶん)なので、日本語よりカタカナ語の方がいいですね。ちゃんと伝わります。
でも「コンセンサス」って言葉を使うと、途端に意味がぼんやりしてきませんか? 「同意・合意」って書けばしっくりくるのに。
カタカナ語が悪いってわけじゃないんだけど、日本語として機能する、もしくは元の発音や意味をしっかり保つのどっちかじゃないと、「よく意味がわからなくて役に立たない上なんかむかつく」言葉になるので、カタカナ語はあんまり使わない方がベターだよねって話です。