人間の好みは、本当に千差万別だ。
わたしは、偏食が激しい子どもだった。ジャガイモ以外の野菜は全部嫌い、辛いものも酸っぱいものも嫌い、刺身も魚介もダメ、乳製品も全部嫌い。いまはずいぶん良くなったけど。
だから小さい頃から、「なんでこんな不味いものたちを、みんなはおいしそうに食べるんだろう」と不思議だった。
でもそれは当たり前で、人の好みなんてみんなちがう。だからわたしは、「自分とちがうから排除する」という考えがさっぱり理解できない。
今日はスタイルを変えて書いてみます。
「好き」と「嫌い」
あなたは、ナズが好きですか? 青色が好きですか? 散歩が好きですか?
好きな人もいるだろうし、嫌いな人もいる。「普通」と答える人もいるかもしれない。そこにはだいたいの場合、理由はない。「好きだから」「嫌いだから」で成立する話。
「新卒フリーランスをどう思うか」みたいなテーマだとしても、結局物事の判断の根幹には「これは好き」「これは嫌い」ってのがあって、その価値観は人それぞれだ。
好き嫌いに理由はいらない
「嘘をつく人を好きですか?」
こう聞いたら、たぶん全員が「嫌い」と答えるだろう。でも、理由を説明できますか?
「信用できない」「性格が悪い」という声が上がってきそうだけど、結局は嘘をつくという行為に嫌悪感があって、だから嘘をつく人が「嫌い」ってだけの話だ。
好き嫌いには、理由は必要ない。好きだから好き、嫌いだから嫌い。それで片づけられるのが、「好み」という価値観だ。
で、その好みって価値観はどんな判断でもついて回る。「男は女におごるべきか」という話題でも、いろんな理屈をこねまわしても、結局は「それは好き」「それは嫌い」って感覚の話になってくる。
人間はみんな、ちがう価値観を持っている
好き嫌いは、ただの感覚だ。理由は説明できない。わたしはナスが未だに大嫌いで、どうしても食べられない。でも、ナスが大好きな人を「排除したい」とは思わない。
卓球はわたしにとってはまったく面白みのないスポーツだけど、彼は小さい頃から大好きで今もプレーしてる。彼にとってベースはギターの劣化版的な位置づけだけど、わたしはギターの何倍もカッコイイ楽器だと思ってる。
わたしが見つけられない卓球の魅力を彼は見つけたし、彼が知らないベースの魅力をわたしは知ってる。
わたしがいつも、「みんながみんなそうじゃないけど、わたしはこう思う」「例外はあるけど、わたしはこうだ」という言い方をしているのは、人間みんなちがう好みを持っていると知ってるから。
好みがまったくちがう人間に対して、理論なんて無力だ。だからいつも、「他人は知らないけど、わたしはこう思う」って言ってる。だって、好みは人それぞれだもの。
価値観がちがうのは当然だ
だからわたしは、自分がまったく理解できないことでも、「そういう考えの人がいる」ことは受け入れてる。ナスが大嫌いだけど、ナスが大好きな人を攻撃しようとは思わない。そんなのは意味がない。わたしはナスが嫌い。相手はナスが好き。それだけ。
そう思ってるから、わたしは自分とちがう意見を言う人を「嫌い」だとは思わない。だってそれが当然だから。
それが個性というものだし、だからこそ他人と関わることで視野が広がるんだと思う。
相手の価値観が理解不能でも、「そういう人もいるんだな」とわたしの世界を広げてくれるし、もしかしたら感化されて、ナスが好きになるかもしれない。
だからわたしは、「他人は知らないけど自分はこう思う」を貫いてる。みんなちがうことが当然なんだ。
社会倫理的、一般常識的にアウトな価値観はあるわけだけど、それに逸脱しなければ他人の価値観がちがうことは当然だ。
自分の価値観を押し付けることはできない
実はこの記事を書いたのには理由があって、わたしの記事に対して「相手を否定して自分を正当化したいだけ」「自分の意見を通したいだけ」という批判コメントがあったから。
わたしは、記事の内容批判ではなく、1記事読んだだけで見ず知らずの他人の内面にとやかく言ってくる人間が大嫌いだ。
でも、そういう考えの人がいるのは認めてる。だからよっぽどひどいコメントした人以外は、基本にブロックしない。大嫌いだけど。
ただ言いたかったのは、「自分を正当化する意図はない」ということ。
正当化するもなにも、自分のなかで自分の意見は絶対だ。だれが何と言おうと、ナスは嫌いだ。
だけどそれが世界の標準かといえば、そうじゃない。当然、ちがう好みの人はいる。だから、対外的に正当化なんてできるはずがない。
いくらわたしが「ナスを食べなくても問題はない。ナスを食べる人間はバカだ」と言ったところで、ナスが好きな人は好きなままだ。
いくら意見を押し付けたところで、他人の価値観が変わることはめったにないし、無理やり納得させるのは「何様?」って話だ。
だからわたしは、「わたしはこう思う」って言ってる。「思うって言葉は説得力が欠けるからブログでは使わない方がいい」と言ってる人を見かけたけど、わたしは誰かを説得したいんじゃない。わたしが思ってることを書きたい。
だから、「わたしはこう思う」と書いてる。
自分とちがう人間の排除は無意味
なにを言いたいかというと、「結局価値観なんてそんなもの」ってこと。みんなちがうのが当然。
だから、「自分とちがう人を排除したい」という気持ちがまったくわからない。むしろ自分とまったく同じ人なんていない。自分とちがう人を排除したら、最後には自分しか残らない。
『多数派に反旗を翻せ』という記事を書いたのも、「みんなとちがうのが当然なんだから堂々としてればいい」と思ったから。『日本の同調圧力が嫌い』という記事を書いたのは、他人に合わせても自分は自分だと思ったから。
均一化なんてできるわけがない。みんなちがうのが当然なんだから。
だから「自分とちがう」という理由で他人を排除するのは無意味だ。みんなとちがうことをする人を叩く人がいるけど、そもそも同じ人間なんていない。みんなどこかしらちがう。だから、みんな勝手にやればいい。わたしも勝手にやる。
でもこの気持ちをだれかに押し付けたいとは思わないし、わたしの意見が正義だとも思ってない。わたしはこう考えてる。それだけだ。
『18歳で起業は無謀?無責任な批判で出る杭を打つなよ』という記事を書いたけど、18歳で起業する彼の生き方について賛否両論の意見を書くのは自由だ。でも、彼に人格攻撃をして排除しようとしても意味はない。
人間はみんなちがう価値観を持ってる。だから「自分はそれは嫌いだ」「自分はそう思わない」と言うのはいいけど、「自分とはちがうから攻撃しよう」という考えは浅はかだ。
というわけでわたしは、これからも自分の思うことを書いていきます。
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