文章は、歌う。うまい文章とは文字による音楽だ

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いままで「文章を書くノウハウ」にあまり興味がなかったわたしですが、「うまい文章とはなにか」について、本気で考えてみました。

 

 

「うまい文章」とはなにか? 

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わたしが今まで「うまい文章の書き方」といった記事を書かなかったのは、自分自身、「うまい文章」がなにかよくわからなかったからです。

 

とはいえわたしはライターとして生計を立てているので、いま一度「うまい文章」についてマジメに考えてみました。

 

日本語としての精度=文章の質?

他人様の文章を読んでると、「この人国語苦手だろうなぁ」とか「本読まないんだろうなぁ」と思うような、明らかに日本語を操る能力が低い人を見かけます。

 

では、そういった人は「文章」が下手なんでしょうか?

いや、むしろ「文」が下手なんだと思います。

 

わたしは、「文」は文字の繋がりによって成り立つひとつのまとまり、「文章」はなにかを表現するために文を繋げたかたまりだと解釈しています。

つまり、日本語をうまく扱えないのは「文」が下手なのであって、文自体に粗があっても、全体として主義主張がまとまっている良い「文章」もあります。(あんまりないけど)

 

だから、日本語の精度が文章の質に必ずしも直結するとは思いません。日本語学者の本でも、読みづらいものは読みづらいですからね。

 

説得力=文章の良し悪しではない

あとよく耳にするのは、「説得力がある文章はいい文章だ」という主張です。そのせいか、巷には「語尾は言い切り口調にしろ」だとか「データや客観的情報を盛り込め」といったノウハウが出回っています。

 

でもわたしはこの考え、あんまり好きじゃないんです。

 

言い切ること自体が悪いわけではないけど、「わたしはこう思う!」「こうかもしれない!」という主張だっていいじゃないですか。

それに、わたしは「自分はこう思うけどみんなはどう?」というイメージで文章を書いてるので、他人様を「自分の考えをもって説得してやろう!」なんて思ってませんし。

 

説得力があるかないかで文章の良し悪しが決まるなら、読み手の想像力に解釈をゆだねる詩や小説=文章として低レベルってことになるし、この世でもっとも「いい文章」は、取扱説明書になるでしょう。

 

だからわたしは、「説得力があればいい文章」とは思いません。

↑たとえばここで、「だから説得力と文章の質にはなんの関係もないのです」って言いきったら、なんかちょっとちがう気がします。

 

構成やターゲット設定は文章力とは関係ない

ほかにも、「論理的な構成」、つまり言えば起承転結のようにまとまっている文章がいいだとか、「だれに向けて何を伝えたいかがわかる文章であるべき」という意見も耳にします。

 

「構成」とは文章と文章の組み立て作業のことを言うのであって、文章の質とは関係ありません。また、「だれに届けるか」なんていうのはもはやマーケティングの分野で、ウェブサイトでいえば編集者の仕事です。

 

このふたつは「文章を書いてからどう扱うか」という話なので、文章の質には関係ないでしょう。

 

 

 

うまい文章とは、「音楽」である

じゃあ自分のなかで、「うまい文章」とはなにか。考えてみた結果、「リズムがいい文章、もはや音楽のように頭にはいってくる文章だ」という結論になりました。

 

たとえば、国語の授業で読まされた教科書の文章は、どれも音読しやすい文章でした。ためしに夏目漱石の「こころ」や芥川龍之介の「羅生門」を朗読してみたんですが、実に読みやすい。

自分が好きな小説も音読してみましたが、やっぱりなんの違和感もありませんでした。

 

そもそも日本語は、和歌しかり歌舞伎しかり、「音楽(メロディ)」化しやすいんですよね。だから、流れるように、どこもつっかえることのない「音楽」のような文章が、「うまい文章」なんだと思います。

 

わかりやすい文章は、声に出しても心地いい。読みやすい文章は、朗読もしやすい。音楽のように流れる文章=いい文章=洗練された文章なんじゃないかな。

 

違和感のある文章は響きが悪い

では逆に、「違和感」のある文章とはどういう文章か。「読みづらい」と思ってブラウザを閉じた記事にもう一度目を通してみると、以下のよう特徴に気づきました。

 

句読点の位置と場所が悪い→息継ぎができない

ため・アクセントがない→強弱をつけられない
文の流れが悪い→読んでいて気持ち悪い

 

これは全部、「流れ」に関することです。

 

ちなみに「ため・アクセント」というのは、カギカッコや強調、「やっぱり」「実は」というような、文章の調子を左右する言葉のことです。音楽でいえば、スタッカートや休符に例えられるかな?

文の流れが悪いというのは、余計な言葉や無意味な文があったり、句読点が多すぎて内容がうまく頭に入ってこなかったりする文章のことです。

 

つまり、「うまい文章」は優れた音楽のように淀みなく流れ、抑揚があり、息継ぎができるのに対して、「へたな文章」の旋律には不協和音が混ざっていて、平坦で訴えかけてくるものがなく、音読したら息継ぎの場所で迷ってしまう。

 

わたしにとって「文章の良し悪し」というのは、「どれだけ美しい流れであるか」が重要というわけです。

 

よい文章を書くために必要な「音感」

そもそもわたしが「うまい文章」について考えたのは、スナップマートの代表を務めているえとみほさんの記事を読んだからでした。

 

もしかしたらたくさんの本を読むよりも、良質な文章に繰り返し触れ、そのエッセンスやリズムを吸収するほうが、効率の良い文章修行になるのかもしれない。

出典:私が「書く力」を身につけた(と思われる)方法を紹介します

 

実はわたしも、同じ本ばかり読んでるタイプです。

「飽きるまで毎日同じものを食べる」「同じアニメをいろんなキャラの視点で何度も楽しむ」「気に入った服はボロボロになるまで着る」といった人間ので。

 

 

小さいころから同じ本を何度も読んでいたので、「文章のリズム」や「文字による音楽」になじんでいたんだと思います。だから、不自然な文章を読むと、無意識に違和感を感じる。

長年ピアノを習っていた人は、「この音がズレてる」と無意識に気づきますよね。それと同じ原理かもしれません。

 

そう考えると、音を聞き分ける「音感」のように、文章の流れを感じ取る「感覚」があるのかもしれませんね。

そしてその「感覚」を手に入れるためには、えとみほさんが書いているように、良質な文章を繰り返し読んで、体に浸み込ませることが大切だと思います。

 

「うまい文章」は美しい旋律を奏でる

自分で言うのもアレですが、ありがたいことに、わたしは「言語化が上手」と言っていただけることが多いんです。

それはたぶん、わたしが自分の頭のなかを文字起こししているからです。

 

具体的に書くと、自分の「考え」を頭のなかで朗読して、それを聞きながら文章を書いているイメージです。ちょっと変態っぽいんですけど。

 

自分の頭のなかで音読しながら書いているので、わたしのブログの文章を声に出して読んでみると、とても読みやすいはずです。

それは無意識に、「音楽のようによどみなく流れる文章がうまい文章である」と思っているから、そういった書き方になったのでしょう。

 

もちろん、「いい記事」を書くためには日本語力や説得力、構成やターゲット設定は大切です。でも「文章」に限っていえば、「音として聞いて心地いいかどうか」が、文章の質を大きく左右しているんじゃないかと思います。

 

「うまい文章」の定義は人それぞれですが、好きな文章と読みづらいと思った文章をそれぞれ音読すると、その響きのちがいに驚くはずです。

 

自分のなかで「うまい文章」の定義がはっきりすると目指すものもわかりやすくなるので、これから「歌う文章」を意識して書いていきます。

 

ほかの方の「うまい文章」の定義も聞いてみたいなー。

 

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