どうも、キャリアウーマン(になりたかった雨宮)です。
実はわたしは学生時代、世界をまたにかけるバリバリキャリアウーマンになりたいと思っていました。意外ですか? 意外ですね。
でも、気づいたんです。ああ、自分はそんな理想の自分になれないなって。もしなれたとしても、幸せじゃないだろうなって。
理想の自分になれたら、幸せなのか問題
「夢を叶えたら幸せになれる」と思うじゃないですか。だれしもが、まわりの大人たちから「将来のことを考えて」「夢を実現しよう」って言われて育つから。だから自然と、「夢をもつべきなんだ」「夢を叶えるべきなんだ」と思うようになるし、「そうすればしあわせになれる」と考えますよね。
いやたしかに、理想としている自分に追いつけるのなら、それは素敵なことだと思います。 でも理想の自分になったら幸せか?っていうと、「必ずしもそうじゃない」っていうのがわたしの考えです。
というのも、わたしは学生時代、世界をまたにかけるバリバリキャリアウーマンになりたかったんですよ。でも、もしバリキャリになったとしても、わたしは幸せになれないと気づいたんです。
まわりの期待に応えられる理想の自分
わたしは小さい頃から、能力以上に優秀だと思われがちでした。意見ははっきり言うし、それなりにマジメだったので、「優秀」だと思われやすかった。でもわたしは残念ながら、まわりが思ってるほどできる人間ではありませんでした。
「頭がいい」と思われていたのに、中学校に入って初めての中間テストでは平均よりやや上レベル。わたしのことを「頭がいい」と言って宿題を写していた子たちよりも点数が低かったこともありました。
「運動神経がいい」って言われてても運動部の子には負けるし、「ピアノが弾ける」って言われてもガチ勢には遠く及ばないし。
それでもわたしは、「できる子」扱い。それが実は、結構つらかったんです。
「できるんでしょ」って思われてたら、「できない」って言えないもん。でも、できても当然だし。
本当の自分を見せたらがっかりされるんだろうなっていうプレッシャーをずっと感じてていて、すごく息苦しかったです。でも、他人の期待に応える能力がないことも知っていた。
まわりの期待どおりの「すごい子」でいたい。まわりが思う「わたし」でいたい。そしていつの間にか、それがわたしのなかで『理想の自分』になっていきました。
大物はホンモノ、はぐれ者はニセモノ
わたしは小さい頃から変わった子どもでもありました。自分では「ふつう」に振舞っているつもりでも、なんかみんなとちがう。なんかズレてる。なんか変。
しかも自分の考えをはっきり言う性格なので、ある程度の年齢になってからは、「人とはちがう生き方をしている人なんだ……!!」と認識されるようになりました。
でもわたしからしたら、これもまた過大評価なんです。
わたしは、みんなの尺度で測れないような大きな人間ではなく、みんなの尺度から外れたはぐれ者でしかありません。それなのに、なぜか知らんが「自分の道を切り開いてる」感じに受け取られました。いや、本当にちがうんだけど……。
「自分の意見がしっかりしてていいね」
「はっきり言える君がうらやましい」
なんて、何度も言われました。
自分はなにも主張せずだれかの後ろに隠れてる人に、そんなのんきなことを言われるのが腹立たしかった。わたしだって君たちみたいに、子羊のふりして沈黙できてればどれだけ楽だったか……なんて思ったりね。
多かれ少なかれ、人はだれしもが、「他人に思われている自分」と「本当の自分」のギャップに戸惑ったり苦しんだりするのかもしれません。
中身をともなわない夢をもった
実際のところたいした中身のない人間だとバレたくない、という気持ちを常にもっていた、過大評価されまくりのわたし。そこで登場するのが、「世界をまたにかけるキャリアウーマン」ですよ。
みんなと同じ土俵には上がりたくなかった。そしたらわたしの順位が、まわりの期待値より低いことを知ってたから。でも人とちがうことしたら、ナンバーワンになれなくてもいいじゃないですか。「人とちがう」ってだけで「特別」になれるし。
ナンバーワンになる実力や能力がないと悟ったわたしは、それでも過大評価に応えるべく、オンリーワンの道を模索するようになります。まぁもともとそういう性格だったのもあったんだけどね。
わたしは、平凡なOLにはならない。みんなが「あっ」と言うような、トクベツな生き方をするんだ。
能力が低いのだと突きつけられた日
でもバイトを経験してみて、思い知りました。
わたし!ぜんっぜん仕事できねぇ!!
いやもう、自分に絶望するくらい仕事できなかったんですよ。なんの仕事かって? 焼肉屋のキッチンとホールという何の変哲もないバイトだよばかやろー。
わたし、時間的プレッシャーがかかると思考停止するんです。だから小学生のときから、夏休みの宿題は7月中に終わらせたし、宿題もその日の授業中に終わらせたし、仕事も締切の2、3日前には納品します。
いまでも、明日カフェに行く予定ならもっていくものを全部用意してから寝ます。家を出るときに慌てると、転んだり忘れ物したりするから。
しかも本番にめちゃくちゃ弱くて、ピアノの発表会もイヤな思いしかありません。最後の発表会があまりにもひどくて、いまでもたまにフラッシュバックするレベルです。
だからお客さんが目の前で待ってるとテンパっちゃって、おつりの計算をまちがえたり、書類を見落としたりしていました。
ここでも、「自分はそこそこ無能である」という事実を突きつけられちゃうんです。
実際の自分の能力の限界を知って、すごく情けなかったし、みじめだったし、つらかった。
そうだ、海外に行けば「すごい人」だ
それでもまだ、「わたしはその程度の人間でーすっ(ペロッ」って言えるほど、自分を諦めきれませんでした。これもまぁわたしのくだらないプライドなんですけど。
だから、就活をやめてドイツへ行くことに決めました。人とちがうほうへ行かないと、自分が無能だってバレてしまう。みんなと同じ土俵でなんて、怖くて戦えない。結局なにごとにおいても、わたしは逃げの姿勢だったんですよね。
まぁスーツや黒髪強制、日本の労働環境がイヤだったってのもあるけど。
で、そこでまた過大評価ですよ。
「みんな就職するなかでちがう道を選ぶなんてすごいね」と。
海外移住の決断は「まわりが思っているわたし」像に一致するものだったらしく、「やっぱりね」とか「さすがだよ」「かっこいい」なんて言われました。
ほらー! また同じ感じになってんじゃん!!
ドイツでできない自分と向き合わされた
ドイツでの仕事は2ヵ月で辞めたし、その後の就活はうまくいかなかったし、大学も辞めました。
大学を辞めたのはクソビッチ女2人と大喧嘩してすべてイヤになったことが直接的なきっかけだけど、率直にいえば外国人コンプレックスに負けたのが原因です。
いままで「できる子」扱いだったのに、外国人として大学に入ると、「できない子」になります。まぁ当然っちゃ当然だけど。
わたしはそれを受け入れられませんでした。「ここわかる?」って聞かれる優しさがみじめで、議論でうまく答えられない自分が情けなくて。
多くの外国人学生はうまく人に甘えて、できない自分を受け入れて、それでもがんばってます。でもわたしはそうやって素直になる器もありませんでした。はじめて「できない自分」と直面しなきゃいけなくなって、どう振舞えばいいのかもわからなかった。
やっぱり自分って無能だったんだな……
完全なる自信喪失です。
自分の能力と器の天井を見た
わたしは優れた人間ではないし、まわりが期待しているようなこともできないし、理想的な有能な自分にはなれない。気づいたっていうより、「悟った」に近いかもしれません。
そこから「まぁニートやっててもしょうがないからブログでも書くかー」とブログを書き始め、「文章書くの楽しいからライターになるかー」とライターを名乗り、「大学辞めるからフリーランスになるかー」とフリーランスになりました。
どれもみんな、積極的なカッコイイ理由なんてありません。ただ自分にとって一番苦しくない道を歩んできただけです。自分の無能さを棚上げできる場所に逃げ込んだだけです。
まぁクッソダサい人生を歩んできた自覚はありますけども、それで学んだこともあります。
それは、理想の自分が最高の姿であるとは限らないし、相応の幸せで人間はじゅうぶん満たされるんだってこと。
理想の自分が最高の姿であるとは限らない
いまでも、パリっとスーツを着こなして、外国語をいくつも操って、いろんなところに顔をだす行動的な女性に憧れます。ネイルして、タイトスカートにヒールで企画会議なんかに出て、男性上司をうならせるような強い女性。そんな人になりたかったなーって思ってます。
でももしもそうなれたとして、わたしは幸せになれるのかな?
そう考えると、答えは「NO」です。自分の能力の低さと器の小ささを悟ったいまでは、それが不相応な高望みであり、自分の道ではないと理解しています。
なりたい自分、理想の自分ってのは、いわゆるRPGゲームのキャラメイクみたいなものなんですよ。1番格好いい見た目、イケてる能力の集合体。憧れの存在。
でも実際にあなたがゲームの世界の住人だとしたら、そのキャラになりたいか?って話で。
たぶん多くの人は、ちがうキャラを選びます。
剣を振り回す前衛キャラを選んだ人だって、実際にその世界に行ったら、薬草背負って行商人をするかもしれません。魔法で治癒をするキャラを選んだ人だって、王立アカデミー的なところに行って軍師になるかもしれません。
もっと言えば、勇者なんてクソだるい責任重大な存在になりたい人なんて、なかなかの変態ですよ。
つまり、理想的な自分が、あなたにとって「最高」の姿とは限らないわけです。さらにいえば、別にみんながみんな、理想の自分を目指さなくたっていいんです。理想なんてあくまで、妄想なんですから。
自分を知らなきゃ現実の幸せは見えてこない
そう思ってからわたしは、「能力も器もたいしたことのない平凡な人間」として分相応に生きていこうと決めました。
月100万稼ぐ? ムリムリ、わたし無能だし。
大勢の人を巻き込んでムーブメント? 勘弁してくれ陽キャに任せる。
知名度アップしてインフルエンサー? わたしを豆腐メンタルだと知っての狼藉か?
ってな感じです。
自分の能力も器もたかが知れてるって、もう知ってます。わかってます。
だからこそ大きな旗は掲げず、小さな積み木を積み上げていくんです。ちっぽけでも、淡々と、コツコツと、確実に。大きなことができる人間ではないから。
これは諦めに聞こえるかもしれないけど、そうじゃないです。自分を知ったうえで、現実的にできることを実践して、現実的に幸せになりたいって話です。自分を知らず、自分にはできないことをやろうとして潰れるより、よっぽど確実な「幸せへの道」です。
幸せになれる自分像を追い求めて
理想であるキャリアウーマンになれても、わたしはたぶん、幸せじゃありません。だから「キャリアウーマンになれなかった」と落ち込む必要はないし、これでよかったのだと思っています。
ただわたしは、「理想の自分になったから幸せになれるわけではない!」と否定的なことを伝えたいんじゃありません。むしろ、なれるならなったほうがいいと思う。
ただ、理想の自分じゃなくても幸せになれるんだよっていうのは、伝えたかったんです。だってみんな、「理想を追う」ことばっかり言うから。
夢を見るだけならタダ。いくらでも理想の自分像を描けばいいし、可能なら達成しちゃえばいい。でも現実の自分を知っても自分にがっかりする必要はなくて、それならそれで分相応の幸せを見つめていけばいいだけ。
結局、なりたい自分になって不幸になるより、なりたい自分には追いつけなかったけどいま幸せですっていうほうが、人生は充実するわけだから。