議論大好きドイツ人と議論嫌いな日本人。議論は粗探しじゃない

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日本人は多くの場合、議論が嫌いです。それはみなさんも感じているのではないでしょうか。

 

わたしは自分の意見を言ったら、「じゃあもういいよ」と何度も拒絶されました。今日も、議論を粗探しだと言われてプロジェクトが頓挫しました。

 

日本では和を重んじるあまり議論は嫌われますが、いま住んでいるドイツという国は、議論大好き国家です。

 

「そのちがいはどこから来るの?」といえば、歴史に裏づけされた国民性と、学校教育の方針によるものが大きいでしょう。

 

議論大好きドイツ人

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ドイツ人は、総じて議論が好きです。スタバで友達と難民政策に対して2時間話し合ったり、バーで学校教育に対して熱く語ったりします。

 

なにかテーマがあったら、まず「自分がどう思うか」を伝えることが第一に来ます。そして次に来るのが、「相手をどう説得するか」。その次くらいに、「相手がどう思っているか」が来るイメージです。

 

ドイツ人の議論は結構エグイです。

話をぶった切って「統計は!?」とか「それが勘違いだって言ってるんだ!」と割り込んだり、「それは理論になってない」「そんなことは子どもでもわかるだろう」と反論したりします。

 

大学の議論で白熱すると、授業時間が終わっても続きます。場合によっては、「納得いかない。ご飯食べながら話そう」という流れになることもあります。マジです。

 

で、おもしろいのは、「ふーむ。君の意見に賛成はできないけど、たしかにそれは考慮すべきだね。ところで宿題やった?」みたいに、議論に後腐れがないんです。

 

もともと「意見がちがうのは当然で、自分が説得させられない限りは自分が正しい」と考えている人が多いので、意見がぶつかっても平然としています。

お互い、「それは一理あるけど、やっぱ自分が正しいわ、うん」と思っているから後腐れがないのかもしれませんが。

 

議論嫌いな日本人

「じゃあ日本人は?」と言うと、議論が嫌いですよね。空気を読んで仕事ができなくなる病という記事でも書いたのですが、「和を以って貴しとなす」という意識があります。

 

それは日本人の美徳でもあるんですが、議論とは対極の位置にあります。「言わなくても空気を読んで意思疎通を図る」のが当然なので、自然と議論とは離れていきます。

 

それがYESマンという存在につながって、「面倒なことには目を瞑る」風潮になってしまいました。だからあえて自分の意見を言って面倒なことになるよりは、みんなに合わせておけばまちがいないだろう、という考えになるんですね。

 

その反面、人に合わせない人がいると、「こいつがいるから進まないんだ。黙ってれば丸く収まるのに」と思われたりします。

 

だから日本人は議論が嫌いですし、苦手ですし、できません。もちろん全員が、ではありませんが。

 

 

 

ドイツと日本の議論教育

そもそもドイツと日本では、出発点がちがいます。「人と意見がちがって当然」と思うドイツと、「人と合わせるのが当然」である日本。

 

結果として、日本の学校では「人と合わせろ」と学び、ドイツでは「人と話し合え」と学びます。集団主義と個人主義のちがいですね。

 

一概にどっちがいいとも言えませんが、日本人はさすがにもうちょっと議論できるようになるべきです。せめて議論を議論として受け入れるべき。

 

ドイツ人は議論で解決

「人と意見がちがうのが当然」と考えているドイツでは、「だから議論して解決しよう」という方向になります。

 

ドイツ在住歴20年方の、ドイツの政治教育レポートです。

 

政治の授業で発言した生徒が、授業後にゾンマーフェルト先生に遠慮がちに話しかけたという。「さっきはあんなことを言ったけど、点数に影響しません か?」先生は強い調子で生徒に言い返した。「その質問のほうが減点の対象だ。授業ではどんな意見も尊重される。自信を持ちなさい」と。

ドイツでは政治の授業で模範解答を求めるよりも、論争することに重きを置く。民主主義は、異なる意見を共存させ、止揚していくシステムだからだ。クラスの大多数が同一意見のときには、論争の原則を徹底させるために、先生がわざと反対意見を投げかけることもあるという。

「どんな意見も尊重される」ドイツの民主主義教育ってどうなってるの? 16歳の授業に参加して驚いたこと

 

そう、これがドイツのやり方です。自己主張が当然で、議論が前提としてあります。

 

むしろ、全員がYESと答えることに危機感を持っているのです。国民の熱狂的支持によって暴走したナチス時代の負の遺産ですね。

みんながYESと答えるのなら、民主主義ではなくなっている、と考えられています。

 

日本人は議論で解決しない

じゃあ日本はどうかと言えば、議論ではあまり解決しません。というのも、「わたしはこう思う!」と意見をぶつけられることに慣れていないからです。

 

自分の意見を言わずに耐え忍ぶことが「すばらしい」ことであって、みんなの和を乱さないことが「優先事項」となります。

それは学校でも同じで、みんなの意見に反対する人は悪者になります。日本人の私が、どうしても受け入れられなかった日本文化のひとつです。

 

先ほど一緒にメディアを立ち上げる予定だった方に「粗探しになるのでもういいです」と言われ、進めていたプロジェクトは空中分解となりました。

 

その人が悪いだとかそういう話ではなくて、これはすごくよく起こるんです。

「わたしはこっちがいいと思う」「わたしはこれに反対」と言うと、「じゃあ勝手にしろよ」「文句ばっかり言うなよ」と言われます。

 

わたしが自分の意見を言った分、自分も意見を言って腹割って話そう、という発想にはならないんです。

 

反論は相手の機嫌を損ねる行為で、みんなの和を乱す。そう思っているから議論が嫌いなんです。

 

 

 

日本人も議論ができるように

空気を読んで他人に合わせることが大切なタイミングもあるでしょう。でもそのタイミングを見誤っちゃダメです。というかそれに甘えててはダメ。

 

だってYESマンなら、あなた、いらないじゃないですか。ちがう意見を持ってちがう発想をしなければ、あなたは必要ないですよ。それこそロボットでいいです。

 

今日、「雨宮さんのトップダウン式の方がうまくいきますよ」という皮肉をいただいたんですが、自分の意見を言うことって、そんなにダメですか? 反論されたらそんなに気分悪いですか?

 

ぶっちゃけ、空気を読んでばかりいても、なにも進みません。自分の意見を言えない人は、存在価値がないと思っています。だっていてもいなくても変わらないじゃない。

 

反論されたくないなら意見言わないのが一番利口。そうやって自分を見失っていくんです。で、結局「勝手にしろ」って議論を拒絶してしまう。

 

議論=批判でも、議論=悪口でもないです。お互い見えていないことを指摘しあって理解を深めるのが議論です。

 

日本ももうちょっとドイツ式の教育を進めていかないと、口をつぐんでやり過ごすYESマンが量産されるだけですね。やだやだ。

 

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