「お前の記事は主観的すぎる」
オピニオン記事に対して、以前こう言われたことがあった。
「自分の意見書いてるんだから当たり前だろ」と思う一方で、もっともらしいデータを加えると「客観的なデータに基づくいい記事」「事実関係がよくまとめられている」というお褒めの言葉をいただいたりもした。
公正・公平・中立な立場で書いた客観的な記事が問答無用で「いい」ものなのであれば、世の中の文章はなんてつまらないものだろう、と思う。
エモーショナルな主観的記事は低俗なのか
どうやら世の中では、「客観的>主観的」という図式が成り立つらしい。
どちらかに偏った考え方よりも、公正・公平・中立のほうが「格が上」「ちゃんとしている」と思われやすいのは、わたし自身、身を持って体験している。
ただ、そういった風潮を、わたしはすごくつまらないと思う。
報道やドキュメンタリーなどの特定分野では、客観性は大事だ。
でも、エモーショナルでこれ以上ないくらい主観的な文章だって、もっと評価されてもいいんじゃないか?
公正で公平で中立な視点から、客観的に分析することが必要なときもある。
でもそれと同じように、偏った情熱をバーン!とぶつける自分勝手な文章だって、すごく価値があると思う。文章を通じてその人の考え方や生き方が伝わってくるし、繊細な感性による文章は読んでいて癒されるから。
「わたしはドイツのこういうところが好き!」って書いても、「ドイツにも悪いところはある」「いいところしか見ていない」みたいに書かれたりするんだよね。
そういうコメントを読むと、「好きなところ書いてるんだから好きなところだけ熱弁してなにが悪いんだ」って思うわけ。
客観的にドイツの優れているところを分析して、良さと問題点と天秤にかけて「それでもドイツはいい国である」って伝えたいんじゃないの。
「わたしはドイツ好きだぜェー!!ひゃほーい!!」って伝えたいんだから、偏ってていいじゃない。
日本を褒める外国人は、「日本のいいところしか見ていない視野が狭い人間」なのか? ちがうでしょう。
客観的にモノゴトを俯瞰して書いた記事のほうが頭よく見えるけど、だれかの心を揺さぶれるのは感情が爆発した自分勝手な記事だと思うんだよね。
まぁうまい人は自分の感情を爆発させつつ客観的ぶった記事を書いて、「あくまで中立の立場ですからねー」ってスタンスとったりするけどさ。
客観的な要素を詰め込めば「いい記事」?
たしかに、ある程度事実に基づいてないと文章の信頼性が低くなるのは理解できる。「砂糖は辛い」を前提とした記事なんて信用できないもんね。
でもそこから先の客観性って、必ずしも必要なのかな?
物理的な観点で砂糖の甘さを解説するのであれば、砂糖の原子?分子?とかのつながりや、甘さを感じる味覚の仕組みなんかを盛り込めば、客観的な記事になるよね。
でも「砂糖は甘くておいしい」ということを伝えたい記事で、「なぜ砂糖を甘く感じるのか」「甘いとおいしいと感じる人体の仕組み」っていう情報は、必ずしも必要というわけじゃない。
その文章でなにを伝えたいかによって「客観性」の重要度は変わるはずなのに、「主観的な記事」という言葉が問答無用で「ダメ出し」として使われてるのが気に食わないんだ。
主観的、客観的っていうのは、小説の一人称、三人称みたいなもので、それぞれ良さがある。そして、楽しみ方や受け取り方もちがう。
主観的な文章が「あくまで個人の価値観である」という前提を理解できず、「客観的で公平な文章のほうがいい」と決め付けるのは、「自分はリテラシーのない人間だ」と言っているようなものだと思うよ。
客観性を求めるなら、ネットニュースや個人ブログなんか読んでないで、論文と研究書を読んでればいいのさ。
事実が先か意見が先か
公正・公平・中立な視点で正しい情報を伝える文章にも魅力はあるけど、主観的で感覚的、自分勝手で他人の感情に訴えかけるような文章だって魅力的だ。
もちろん、客観的データを引用することが悪いなんてことはない。自分の意見の補強として使うのは一般的だし、事実を伝えるための手っ取り早い手段だ。医療情報やお金が絡む情報なんかは、客観的であるべきだと思う。
でもデータなんてのは、いくらでも解釈可能だってことを忘れちゃいけない。
都合のいいところだけ切り取って紹介できるし、因果関係不明でもそれっぽくこじつけることもできる。
「こういうデータがこれを裏付けている」って書いてある記事だって、探せばまったくちがう結果になってる統計が出てくることもある。
事実が先にあって、それにあわせて客観的に分析するのはわかる。でも主観的な意見に説得力をもたそうと、都合のいい客観性を加えてそれらしくするのは卑怯な気がするんだよね。
でもそうやって客観性を加えないと、「主観的である」という理由で文章をまともに受け取ってくれない人がいる。
かんたんに言えば、「自分の意見が正しいと思ってるバカが書いた文章」っていうレッテルを貼られやすい。
だから、「文末は言い切る」ことが、文章を書く基礎的テクニックになっちゃう。
個人的な意見ではなくそれが客観的事実だと、読み手に誤解させる。他人に自分の意見を押し付けるための悪知恵って感じだね。
強い言葉を使うから説得力が生まれるんじゃない。論理的な文章が説得力を生むんだよ。そして、主観的な意見を述べた論理的文章っていうのは両立できるんだよ。
わたしがそれをできてるかはまた別の話だけどな!!
主観的を極めた自分勝手な記事を読みたい
「今年の様子を分析した結果、阪神のいいところはここで、問題点はここ。巨人の強みはここで、弱点はここ。それぞれちがうから優劣を決められないね!」
こう書くと、中立的で客観的な「いい記事」だと思われやすい。たいした中身はないのにね。
ただ自分がMac派ってだけなのに、「MacではできるのにWindowsではできない10のこと」なんてデータつきで書けば、たしかに「ただ好き」って書くよりも説得力は上がるだろうよ。
でもさぁ…
つまんないじゃん、そんなの!
もっともっと、自分勝手で感覚的な文章が評価されてもいいじゃないか。主観的といっても最低限のマナーや社会倫理は守るべきだけど、「これが好き!好きでたまらない!理由は好きだから!!」だっていいじゃないか。
感情の動きが明確なら主観的でも充分説得力はあるし、逆にいくらデータに基づいていても、言ってることが支離滅裂なら説得力もなにもない。
「主観的な文章=客観的な文章より劣っていて幼稚で浅い」っていう風潮はもうちょっと変わっていってほしい。楽しみ方と必要とされる状況がそれぞれちがうんだよ!
わたしはもっといろんな人のエモーショナルな自分勝手な記事が読みたいよ!!
以上、解散。