嫌なことから逃げ出してばかりの雨宮です、こんばんわ。
日本社会では一般的に、「嫌なことから逃げることは根性なしがやることで、恥じるべきだ」という考えがあります。武士道、自己犠牲精神が根付いてるからでしょうか。
でも、そんな風潮があるからこそ、逆に聞きたい。
嫌なことから逃げ出して、なにが悪いんですか?
嫌なことから逃げ出すことは、なぜ悪なのか?
わたしは、いわゆる根性なしです。嫌なことが起こると、「こんな思いをしてまでやるべきなのか?」と思ってしまって、やる気がなくなっちゃうんです。
だから中・高で部活を途中でやめたし、就活もやめたし、ドイツの大学も辞めました。客観的に見れば根性なしだし、嫌なことから逃げ出してばかりの弱い人間なんだろうと思います。
でもわたしは、だからといってそれが、欠点であり直すべきだとは思えないのです。
「嫌ならやめる」は当然のことではないのか?
わたしにとって、「嫌ならやめる」は当然の選択です。むしろなんでみんな、「これを超えれば成長する!」って耐え忍ぶの?
いじめられたから学校へ行かない。上司が怖いから仕事を辞める。どっちも「逃げ」です。でもそれの、なにが悪いんでしょう。
「嫌なことから逃げてばかりいては成長できない」と言うけれど、「嫌だ」と思う時点で、すでに向いてない、もしくは相性が悪いんだと思います。
だったらさっさとやめて、楽しいと思えることに時間と労力を費やしたほうが、成長できると思いませんか?
いじめられても、逃げずに学校へ行く。精神的に強くなれたり、友達と和解できたり、プラスの結果が出るかもしれません。でも、出ないかもしれない。もっと精神的に追い込まれて、もっと敵が増えて、立ち直れない心の傷を負うかもしれません。
上司が怖くても、仕事を続ける。上司に認められて昇進したり、負けん気でスキルを磨いたり、プラスの結果に結びつくかもしれません。でも、そうじゃないかもしれない。仕事のことを考えるだけで吐き気がして、メンタルやられて闘病生活になるかもしれません。
逃げることのデメリットばかり注目されるけど、逃げないデメリットの方が、はるかに大きいですよ。だったら嫌になった時点でやめちゃえば?
逃げることなく続けてなにを得られるの?
「嫌なことから逃げることは悪」だという理由はたいてい、「ロクな大人にならない」だの「逃げ癖がつく」だの、「だから?」っていうものばかり。
よく「逃げてばかりじゃ成長できない」と言われるけど、成長ってなんでしょう。なぜ、どんな状況下でも、成長を目指さなきゃいけないんだろう。成長できる場がちがう場所であるなら、ささっと逃げ出す方が、よっぽど理にかなってると思うんですが。
わたしは人間関係が嫌で、中・高と部活を辞めました。部活のトラブルが原因で、学校が嫌で嫌でしょうがなかった。本当につらかった。
それでも部活を続けていたら、わたしはいま、超立派な大人になってるんですかね?
逃げないことで負う大きすぎるリスクを押さえるほどの、明確なメリットが提示できないのに、「続けていればいつかいいことがある」という不確定かつ無責任な考えで、どうして他人を追い込むんだろう。
「逃げるな」というのは、「逃げずに立ち向かったことによって心身をやられて人生が詰んでも面倒を見てやる」という覚悟がなければ、言っちゃダメな言葉です。
逃げた先に成長があるのが人生だ!
『ばらかもん』というマンガに、東野という男の子が登場します。小さいとき、字が下手で書道教室に通わされ、「できないのはボクが悪い」と我慢して字を書いていました。それでもうまくなりません。
そんなとき東野少年は、書道の先生が、次の昇級試験で隣の教室に負けたくない、あの子はダメだ、と言っているのを聞いてしまうんです。
東野少年はすべてを否定された気になって、その場から走って逃げました。と、そこで気づくのです。「ボク速いな」。そう、東野少年は足がとても速かったのです!
その日に陸上クラブに入会して、その後、陸上でいい成績を収めます。
アホみたいな話だけど、そういうのって、実際の人生でも結構あると思うんです。逃げたところで自分の可能性を見出して、成長すること。
わたしが就活を辞めなかったら、いまドイツにはいません。ドイツの大学を辞めなかったら、ライターとしての雨宮はいないのです。
その「逃げ」に少しの後悔もないし、その時最良だと思った決断を「逃げグセ」で片付けられたら、腹が立ちます。いろいろ考えたって。
嫌なことから逃げても、逃げた先で、逃げたことを糧にして、成長すればいいじゃない。それで、「逃げたら成長しない」って言ったヤツを笑ってやろうよ。
自分すら幸せにできない人間が他人を幸せにできるわけがない
いつか報われるかもしれない苦労で、現在の幸せがブチ壊しになったら、元も子もないでしょう。自分自身の幸せのために、その忍耐や根性は、本当に必要なの?
「逃げない」という選択は、立派です。でも「逃げるかどうか」を考えなきゃいけない時点で、心身ともに大きな負荷がかかっていることは事実です。
その負荷をバネにやってやる!っていう人は、真っ向から立ち向かえばいい。でもそれができない人もいて、その人を一方的に「劣っている」と決め付けるのは、あまりに傲慢だと思います。
自分自身に余裕がなくて、自分の幸せを放棄して「いまは耐えるべき」「逃げちゃいけない」って言ってる人は、絶対に他人を幸せにできません。
自分のことを省みる余裕すらない人が、他人を幸せにできるわけがないです。まず、いまの自分の幸せにできなければ、話になりません。
こういう考えを、意識高いサラリーマンに「刹那的」ってディスられたけど、5年後の幸せのためにいま不幸でいるなんて、バカみたいじゃん。なぜいま逃げなければ5年後が幸せだと言い切れるの?
モノゴトには浮き沈みがあるし、常に楽しいこととは限りません。でも、それをしんどい、つらい、逃げたいって思うようなら、やらない方がいいと思います。
逃げたことを正当化しようとする人も多いけど、いいじゃん、「しんどいから逃げました」で。
自分の幸せすら保証できないような人間が、他人を幸せにできるわけがない。嫌なことから逃げたって、逃げた先で成長すればいい。
いい加減、「逃げは悪」「耐えることによって成長できる」っていう精神論、やめませんか。もっと楽に生きたって、バチはあたらないと思います。根性ナシ上等だばかやろう!