「否定や批判はよくない」と言うのは、罪である

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ツイッターを見ていると、定期的に流れてくる言葉があります。それは「否定や批判はよくない」「足を引っ張ってくる人は無視しろ」「ひどい言葉は自分に返ってくる」というような主張。

 

何度でも言いますが、否定や批判はなんら悪いことではありません。否定や批判を拒否する人は、自分が『進歩の拒絶』をしていることに気づいたほうがいいと思います。

 

日本で嫌われる『否定と批判』

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日本では、『否定と批判』がものすごく嫌われますよね。中身のある否定や批判より、中身のない(心も伴っていない)賛意のほうが場を円滑にします。

 

で、わたしはこの考え方が大嫌いです。「そうだね~そのとおりだね~」って言うのがイイコトだとは思えないし、否定と批判がワルイコトだとも思えないから。

 

それでも、「否定や批判はよくないよ! みんなで認め合う優しい世界がいいよね!」と言う人はそれなりの数います。わたしとしては「なにキレイごと言ってんだ?」と真顔になっちゃうのですが、「否定や批判は人を傷つけるからやるべきじゃない!」と賛同する人もいるわけです。

 

なぜ否定や批判が、こんなにも悪者だとされているんだろう。わたしは、なぜそういった主張にこうも虫唾が走るんだろう。

 

否定や批判の拒絶は、進歩の拒絶である

ずっとモヤモヤしていたのですが、とある本を読んで氷塊しました。否定や批判を拒絶することは、共同体の進歩を拒絶することでもあるんです。

 

「日本社会は同調圧力が強い」とは、非常にしばしば指摘されてきた事柄であるが、一体われわれは何に同調させられるのか。その核心にあるのは、「敵対性の否認」にほかなるまい。
このことは、[……]依然として日本国家が契約国家(社会契約に基づく国家)になり切っていないことと関係している。契約は、相互に対等で敵対的な関係を潜在的に持つ者同士が取り結ぶものである。[……]

近代主義の立場からすれば、社会はその社会に内在する敵対性を正面から認め、それを引き受けることによって、一段高次の共同体へと生成することができるし、そうしなければならない。 

出典:『日本の反知性主義

 

かんたんにいえば、「契約社会では対立勢力の存在が前提にあって、それを受け入れることで成熟する」わけですね。逆にいうと、「対立する人を受け入れなければ共同体はレベルアップしないよ~」ってこと。

 

たとえば、「トマト好きvs.嫌い」という対立関係があるとします。双方が「ケンカしないようにしようね」と契約して、『共同体』になります。

トマト大好き内閣としてはトマト嫌いはすげぇ邪魔なんだけど、そこでトマト嫌いを拒絶せずに受け入れて共存することで、共同体に多様性が生まれて強くなるわけです。

 

でもそこに、「否定と批判はよくない」と敵対性を認めない人がいたらどうでしょう。

 

「なんでトマトを否定するの?」「君たちもトマトを好きになればいい」「トマト嫌いのやつらなんて無視すればいいじゃないか」と言い出す。

「『否定と批判はよくない』と言っときながら反対意見はすべて否認するのかよ」というツッコミはさておき、こうやって敵対性を認めないと、なんの進歩にもつながりません。まわりにいるのはイエスマンだけで、それ以上視野は広がらない

 

「否定や批判はよくない」と敵対性を拒絶するのは、「自分と同じ考え以外の人は認めない」と言っているようなものです。果たしてそれはイイコトなのか?

 

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すべての進歩の根源にある敵対性

わたしは、すべての進歩は敵対性によるものだと思ってます。まぁ「すべて」って言い切っていいのかは知らんけど。

 

天動説と地動説もそうだし、神を信じる人と神の否定を試みた人、数学の定理を証明した人と誤りを指摘した人、とある記事に対し反証記事を書いた人……。反発するナニカが起こることで可能性がぐわっと広がるわけです。そして信頼性も上がる。

 

そこで「地動説唱えて天動説を批判する人がいるんだよ。批判はよくないのにね」「わざわざ僕の定理の誤りを細かくチェックした人がいるんだ。暇人は無視に限る」「反証記事を書くなんて性格が悪いんだ」なんて言う人がいたらどう? なにか起こります?

 

進歩には、敵対性が必要なんです。「そうじゃない」という否定や批判にさらに否定・批判をし、それを否定・批判をし……とバチバチ対立することで進歩していくんです。そうやって人類って進歩してきたじゃないですか。たぶん。

 

否認と攻撃を混同する人は黙れ

わたしの結論は、「否認と攻撃を混同する人は黙れ」です。

 

たとえば、映画評論家が「このカメラワークが悪くて迫力が減っている」と言ったとします。当の映画監督はそれを攻撃だと理解して、「じゃあお前が撮ってみろ」などと言ってしまう。文句があれば「これにはこういう意図がある」と反論すればいいし、納得したなら「留意しよう」と答えればいいだけなのに。

 

一方で、「このカメラワークが悪い。監督は観客の気持ちをわかってないからメガホンを置いたらどうか」なんて評論家が言ったとすれば、それは攻撃だから受け入れる必要はない。

 

否認は、進歩には必要なことなんですよ。ただ、攻撃は進歩には必要ないからやんなきゃいいってだけ。そこを混同して「否定や批判は悪いこと」だと拒絶するのは、「イエスマン以外消えろ」という宣言に他なりません。それは、個人的には好きになれないスタンスです。

 

まぁ、否定と批判に『人格攻撃』を交える人が多すぎてイヤになる気持ちはよーくわかるけどね!!

でも否定と批判=悪いことって言う人は、「ちょっとお前黙ろうか」って思うよ!!