「主語が大きい」という批判はまっとうなのか

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ここ最近、「主語が大きい」という批判コメントをよく見るようになりました。多様化が進み、さらにそれが可視化されているから、「すべてに当てはまらない」という文脈で引っかかる人が多くなったのかもしれません。

 

たしかに、具体性をもたせるために主語はある程度限定したほうがいいでしょう。でもネガティブな意味での「主語が大きい」という批判に対しては、ちょっと思うところがあったりもします。

 

「主語が大きい」が悪いことになる理由

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これはわたしの記事に対してだけではないのですが、最近よく「主語が大きい」という批判コメントを目にするようになりました。

たとえば「海外は進んでいる」「女は年収の高い男と結婚したがっている」「最近の若者は」なんて主語だと、「主語が大きい」と言われがちです。

 

それはつまり、「そういう人、そういうことばかりではない。もっと主語をきっちりと定義して限定的な話にしなくては信憑性が低い」といった意味での批判です。

 

言いたいことはわかります。海外っていってもスリランカとロシアとモナコじゃ全然ちがうし、女っていっても人それぞれだし、若者っていってもざっくりしてるから。

「ひとまとめにするな!」という批判は一理あるし、わたしも「どこの海外だよ」って思ったりもします。

 

現在は多様化が進んでいるので、「日本人はこう」「女はこう」といったカテゴライズへの抵抗感があるのはむしろ健全といえるかもしれません。

また、インターネットによりそういった多様性も可視化されているので、ひとまとめに語るのは反感を買いやすいというのも事実でしょう。

 

だから「主語が大きい」という批判には一理あるし、言いたいこともわかります。でも正直なところ、「じゃあなんて書けば満足なんだ?」と思うときもあります。はい。

 

主語を極限まで限定すればそれはただの日記

たとえばドイツについて書くときに、「ドイツ」とだけ書くと、「主語が大きい! わたしの場合はちがった!」なんて言われるんですね。まぁ言いたいことはわかります。でも、じゃあ「ドイツのどこ」って詳しく限定すればそれでいいのかなぁ?って疑問なんです。

 

たとえば、「ドイツ人はみんな優しい」と書く。そこに、「主語が大きすぎ。ドイツ人でも意地悪はいっぱいいる」と言われるとする。では主語を小さくするために、「ベルリンの人はみんな優しい」と訂正したとしよう。でも、それでも「ベルリンにも意地悪はいっぱいいる」という批判が成り立つわけです。

 

「主語が大きい。例外がある」という反論を叩き潰すためには、「ドイツのベルリンの◯◯通りに住む50歳のマイヤーさんは優しい」と完全に『個』に限定しなくてはいけないんです。

 

では徹底的に『個』に限定した文章をなんというでしょう。ええ、日記です。

場合によってはそれは示唆に富んだエッセイだったり、体験談というかたちのノンフィクションだったりもするけど、主語を完全に限定すると基本的には日記ですよね。どこのだれにどう言われた、◯◯村でこんな体験をした、だからこう思った、みたいな。

 

しかも、「ドイツの◯◯という街で出会った××さんや△△さんたちはとても優しく、ドイツには優しい人が多い」と結論を出したとしても、「それはその街のあなたが出会った人限定だ」と言われればもうどうしようもない。

 

いくら主語を限定としたとしても、「そうとは限らない」と言われればそれまで。「そりゃそーですね」としか言えません。

だから、主語が大きいこと=悪いことのように言われると、じゃあもう日記書くしかなくね?と思うわけです。

 

 

 

その主語は本当に「大きい」のか?

そもそも、なぜ主語が大きくなるのでしょうか。それは、「自分の見聞を総合的に踏まえた結果こういう結論を導き出せる」っていう文脈だからじゃないかと思います。

 

もちろん例外があるのは知ってる。みんながそうじゃないのもわかってる。でもドイツで「自分が」出会った人は優しかった。だからそう書く。みたいな。

 

で、よく読んでみれば、そういうふうに書いている記事も多いんですね。

「友人の大阪人はノリがよくて、やっぱり大阪人ってお笑い文化に親しんでいるんだと思った」という文章も、「自分の見聞きした範囲のなかで」という前提で書いています。

 

それに対し「俺は大阪人だがお笑いは嫌いだ。主語が大きすぎる」といったところで、「で?」って話です。それは文章の読解力というか、解釈が雑なだけです。この文章では、「大阪人はみんなお笑い好きだ」と決めつけているわけではありませんから。

 

「主語が大きい」と言う前に、その文章中に散りばめられた主語を限定する言葉をしっかり読むべきじゃないの?なんて思ったり思わなかったり。

いやだって書いてる側だって、みんながみんな100%そうだなんて思ってるわけないですから。さすがに。

 

「日本人の労働時間は長い」に対し、「主語が大きい。定時で帰宅する人だっていっぱいいる」と言われても、「はぁそりゃそうですね」ってなわけで。自分の見聞きした情報や世間一般で言われていることなどを踏まえての一般化は、そんなに悪いことじゃないと思うんですよね。

 

書き手の主観を前提として一般化された情報である、と認識して読むことは、読み手側のリテラシーではないかな。書き手ももちろん表現を気をつけるべきだけど。

 

もちろん、反論として「こういう場合もある」とか「こういう統計からそれは多数派ではない」とか、そういうのは成り立つけどね!

 

主語を限定せずそれでも具体的に書く

表現方法を気をつけるべきというのはそのとおりです。主語大きくして決めつけるのは語弊がうまれやすいですから。「海外では」とか、どこの海外だよアメリカかよインドかよアルゼンチンかよアゼルバイジャンかよっていうね。

 

でも主語を小さく限定すればいいのかといえば、そうともいえません。主語を限定すればそれは身内話になり、「社会」や「傾向」といった大きな話ができなくなるので。

 

んじゃどーすんのと言われたら、「主語を限定するのではなく事象できるだけ具体的にする」のが妥当なところかなぁと思います。

 

「ドイツ人は優しい」だけでなく、たとえば「ドイツに来て困っていた時に、こういう人にこう助けてもらった。だからみんな優しいのだと感じた」のような感じで。そしたらあくまで、経験談と自分の感想ですからね。まぁ日記風というか。あくまで「自分の知ってる範囲のなかですよ〜」感を出す。

 

それでも「みんなそうとは限らない!」と言う人は現れるかもしれませんが、それはもう読み手の判断です。個人情報全部ばらまいて主語を最小化するなんて無理ですからね。個人名や企業名なんておいそれと出せないよ……。

 

誤解をできるだけ生まないように表現方法を気をつける、というのは大前提。でも「主語が大きい」という批判は割と理不尽だと思うよ、だって主語を完全に限定したところで「そうとは限らない」って言えちゃうからね、というお話でした。

 

にしても、なんで最近こういう人が増えたんだろうね? やっぱネットによる多様性の可視化かな? 5年前はそういったコメントあんまり見なかった気がするけど。前からあったのかな?