ドイツ人は英語ができない?むずかしい認識のすり合わせ

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「ヨーロッパに行けばどこでも英語が通じる」。そう思っている人は少なくないでしょう。日本と比較すれば、たしかにヨーロッパの平均的英語力は高いと思います。でも意外なことに、ドイツ人は自分たちのことを、「英語ができない」と認識しているんですね。

 

「みんな英語できるのになんでそんなことを言うんだろう」と疑問でしたが、理由はかんたん。「比較対象がちがうから」

 

ドイツ人は英語ができるのか、できないのか

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 ドイツ人といっても、どこまでをドイツ人とみなすか、年齢や地域はどうするかによってずいぶん変わってきます。とはいえ、「ドイツ人は平均的に英語ができる」という印象です。

 

道案内くらいならだいたいどの人も英語でできるし、得意不得意はあっても「英語がまったくできません」という人、少なくとも若者はいません。英語ができない=教養がない、になりますし、「学校でなにやってたんだ?」って話になりますからね。

ただ東西ドイツでは教育方針がちがったし、すでに引退している年齢の人たちとなれば、また話は変わってきますが。

 

実際に統計を見てみると、ドイツ人の英語力は88ヶ国中10位EF英語能力指数)。「非常に高い」に分類されます。ちなみに日本は49位の「低い」。

友人はみんな英語でyoutubeを見ていたり、英語しか話せない留学生がいるとすぐに英語に切り替えたりするので、単純にすげぇなって思います。

 

でもその一方で、ドイツ人と英語の話をすると、「ドイツ人の英語力はたいしたものではない」と言う人が多いんです。謙遜ではなく、本当に「ドイツ人の英語力なんて全然」だと言う。それはなんでなんだろう。相対的に見ても、ドイツ人はめっちゃ英語ができるのに!

 

相対的な比較をするならなにが基準になる?

そこでふと思ったのが、「相対的に」という言葉。わたしは当然、日本を基準にして比較をした結果、「ドイツ人のほうが英語ができる」という結論にいたったわけです。

一方でドイツ人がなにを基準にして英語力について話すかといえば、英語レベルがめちゃくちゃ高い、オランダやスウェーデンなどの近隣諸国。

 

「オランダは英語のテレビ番組が吹き替えなしで放送されている。それに比べればドイツなんて」

「スウェーデン人はみんなネイティブレベルで英語を話すのがふつう。ドイツ人はそうじゃない」

こう言うんですよ。

 

実際オランダの英語力は2位で、スウェーデンは1位。たしかにドイツから見れば、「もっと上手」なわけです。そしてそれを知っているから、「自分たちはまだまだ」という話になる。

 

日本人も、「ヨーロッパ人は母語が英語じゃないのに英語が話せる」ってイメージがあるじゃないですか。「それにひきかえ日本人は話せない」と思う。

でも学校で英語を学ばないような国がまわりに多ければ、胸を張って「日本人は英語できる」と言うのかもしれません。比較対象によって、評価は大きく変わるんですね。

 

 

 

認識のすり合わせをしないと「ふつう」は語れない

英語力の話をしているのであれば、「日常会話ができればすでにすごい」という日本と、「ネイティブレベルに話せる人ができる人認識」のドイツ。前提条件がちがっても、「英語力」の話はできちゃうんですよね。で、話しているうちに、どこかで「ん?」となる。「あれ、なんか話噛み合わないな」と。

 

お互い同じ認識をしているかわからないのに、「ふつうはこう考えるよね」みたいに考えて話すと、どこかすれちがっちゃいますよね。でもみんな、自分の認識が「ふつう」だと思う。

 

わたしはお父さんの仕事の都合で何度も引越したけど、なんやかんやずっと都市部に住んでいました。

でも地方の友だちは、「大学に車で行くのも当然」なんて言うんです。わたしの大学は池袋にあったので、みんなペーパードライバーで、日常的に運転する人なんてまったくいなくて。

 

わたしにとって「学生は運転しない」のが当然だけど、「学生でも運転する」のが当然な世界に住んでいる人もいるじゃないですか。同じ日本でも。

 

でもその場の雰囲気を共有して会話していると、「お互い同じものを感じている」ことを前提としがちじゃないですか。同じ認識をもっているだろう、という前提で話しちゃう。

 

会話できてても認識はかなり異なる

こういう認識のちがいって、本当はだれにでも起こることなのに、結構見逃されがちですよね。

 

金持ちの家庭に生まれて小学校から慶応に入って慶応を卒業した25歳の新入社員と、バブル時に入社した高卒の50代上司。同じ仕事について話していても、認識はまったくちがいます。新入社員は「根性論なんて古いなぁ」と思うし、上司は「飲みに付き合わないなんてなにを考えてるんだ」と憤慨する。

 

世田谷区で生まれてずっと実家で暮らしていた大学生と、北海道の端っこから上京してきた大学生では、入学式のあと「遊びに行こう」という会話のなかで、互いが想像する「遊び」がちがうかもしれない。

 

いつでも、だれとでも、なんでもそうなんですよ。自分のなかの「ふつう」や「当然」は、すぐとなりにいる人の「ふつう」や「当然」ではない。会話は成り立っていても、お互いまったくちがう認識をしていることもある

 

それでも人間、「自分は一般的である」と思いがちじゃないですか。「ふつうわかるだろ」とか、「当然こうなるじゃん」って言っちゃうんですよ。

でも「ふつう」や「当然」なんて、社会的通念や道徳的観念、一般教養なんかじゃなければ、いくらでも食い違います。それを理解していないと、余計なすれ違いを生んで、イライラしちゃいますよね。

 

自分と相手は、会話が成り立っていても認識はちがうかもしれない。だからこそ言葉を尽くして、お互いの理解度や認識を確認して、それぞれの考えをつき合わせて対話をしていくことが大事になるんだなぁと改めて思いました。